ナースプラクティショナーまでの道第7回
連載コラム「ナースプラクティショナーまでの道 ~看護師人生中間地点~」 第7回
第7回:患者との別れ・・・そして迷子になった私
私が糖尿病看護に進むきっかけとなった患者Gさんは、末期の糖尿病で自宅療養されていた。ある日の午後、奥様から「意識がある間は入院したくないからと頑なに受診を拒否していたけど、もう拒否できない状態だから今から救急車で連れて行く」と電話連絡があった。
救急車が到着後、担当医師とともに黙々と処置を行いながら、39歳という若さで一生を終えようとしている意識のないGさんに対して無性に対話がしたかった。「本当にこの生き方でよかったの?」と。
入院後8時間が経過しても全身状態は全く改善の兆しがなかったため、今夜は越えられないだろうと思い、ご家族に対して長年担当させていただいたこと、Gさんとの出会いが私を看護師としてだけでなく人としても大きく成長させてくれたことを心から感謝していると伝え、意識のないGさんに対しても同じように感謝の気持ちを枕元で伝えて帰宅した。
翌朝私は早く目覚め、Gさんが他界された連絡がなかったことが気になり、6時過ぎに出勤してみると風前の命の灯火が続いていて驚いた。
奥様から、「彼は、最期は中山さんに看取ってもらう、だから中山さんがいない間には死なないよってずっと元気な頃から言っていた。たぶん朝来てくれるのを待っていたんだと思う。」と私に伝えたあと彼に向かって、「お父さん、中山さんきたから、もう看取ってもらえるよ。」と声をかけた。
奥様の言う通り、私の午前中の外来が一段落するのを待っていたかのようなタイミングで彼は他界された。
詰所の心電図モニターがフラットになった瞬間、私の心には幕が降りてきた。彼を見送ったあと、院内のいろんな方から「お疲れさま」「中山さんに看取ってもらえて本望だったと思う」「長年よくやったね」などと温かい声をかけていただいたが、私は達成感もないし、周囲の皆さんからの言葉もうれしくないし、とにかく彼のことは話題にしてほしくない気持ちでいっぱいだった。
「Gさんの合併症を食い止めたい」という糖尿病看護の目標がなくなったことで、私はみるみるうちに看護師人生の目標を見失い「看護の迷子」になってしまった。彼が存在する限り私が当時勤務していた病院を辞めることは考えられなかったが、彼の死から1ヶ月後、娘が突然「関西の高校に行きたい」と言い出したことが退職するきっかけとなった。
認定看護師として専門外来をもち横断的活動を許され、理想的な活動環境にあったが、今後の目標を見失った私は、大学院への進学も含め、私の看護を探す旅に出ることにした。「娘と一緒に関西に引っ越して、これからどうするか一から考えよう。」と決断した。
今でも私は「Gさん、本当にこの生き方でよかったの?私の看護に不足しているものは何?」と不完全燃焼の心の声があり、この言葉を一生背負いながら今もこれからも看護をしていくことになる。
不完全だと思うからまた頑張れる。Gさんからこんな大きなプレゼントをいただいたことに気づくまでに2年かかった。Gさんをはじめ多くの患者さんたちから学ばせていただいた実践知をもとに、この後、北野病院で再び糖尿病患者さんたちとの新たな出会いが待っていた。
救急車が到着後、担当医師とともに黙々と処置を行いながら、39歳という若さで一生を終えようとしている意識のないGさんに対して無性に対話がしたかった。「本当にこの生き方でよかったの?」と。
入院後8時間が経過しても全身状態は全く改善の兆しがなかったため、今夜は越えられないだろうと思い、ご家族に対して長年担当させていただいたこと、Gさんとの出会いが私を看護師としてだけでなく人としても大きく成長させてくれたことを心から感謝していると伝え、意識のないGさんに対しても同じように感謝の気持ちを枕元で伝えて帰宅した。
翌朝私は早く目覚め、Gさんが他界された連絡がなかったことが気になり、6時過ぎに出勤してみると風前の命の灯火が続いていて驚いた。
奥様から、「彼は、最期は中山さんに看取ってもらう、だから中山さんがいない間には死なないよってずっと元気な頃から言っていた。たぶん朝来てくれるのを待っていたんだと思う。」と私に伝えたあと彼に向かって、「お父さん、中山さんきたから、もう看取ってもらえるよ。」と声をかけた。
奥様の言う通り、私の午前中の外来が一段落するのを待っていたかのようなタイミングで彼は他界された。
詰所の心電図モニターがフラットになった瞬間、私の心には幕が降りてきた。彼を見送ったあと、院内のいろんな方から「お疲れさま」「中山さんに看取ってもらえて本望だったと思う」「長年よくやったね」などと温かい声をかけていただいたが、私は達成感もないし、周囲の皆さんからの言葉もうれしくないし、とにかく彼のことは話題にしてほしくない気持ちでいっぱいだった。
「Gさんの合併症を食い止めたい」という糖尿病看護の目標がなくなったことで、私はみるみるうちに看護師人生の目標を見失い「看護の迷子」になってしまった。彼が存在する限り私が当時勤務していた病院を辞めることは考えられなかったが、彼の死から1ヶ月後、娘が突然「関西の高校に行きたい」と言い出したことが退職するきっかけとなった。
認定看護師として専門外来をもち横断的活動を許され、理想的な活動環境にあったが、今後の目標を見失った私は、大学院への進学も含め、私の看護を探す旅に出ることにした。「娘と一緒に関西に引っ越して、これからどうするか一から考えよう。」と決断した。
今でも私は「Gさん、本当にこの生き方でよかったの?私の看護に不足しているものは何?」と不完全燃焼の心の声があり、この言葉を一生背負いながら今もこれからも看護をしていくことになる。
不完全だと思うからまた頑張れる。Gさんからこんな大きなプレゼントをいただいたことに気づくまでに2年かかった。Gさんをはじめ多くの患者さんたちから学ばせていただいた実践知をもとに、この後、北野病院で再び糖尿病患者さんたちとの新たな出会いが待っていた。
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