神戸の訪問看護師 藤田 愛さんのコラム
千分の一のコロナの訪問看護⑬
投稿日:2021.06.13
※原文およびその他の投稿内容については、藤田さんのフェイスブックでお読みいただけます。
1000分の一のコロナの訪問看護⑬
51人とその家族との出会いと別れ
「私みたいな母を二度と増やさないでほしい」
保健センターから障害の40歳の息子と両親の3人の健康観察の依頼があり、できるだけ3人一緒がいいので悪化しないといいんですけどという言葉が添えられた。翌日、訪問の準備をしていると息子は容体が急変し、救急搬送になったから、両親だけの健康観察になりましたと連絡があった。再度連絡があり、そのドアを開ける前に、息子が亡くなったことを知らされた。
どんな面持ちで、どんな気持ちを持って、どんな言葉をかければいいか思いつかなかった。両親が息子の話題に触れなければ、触れないでおこう。呼び鈴を鳴らし中に入った。部屋に漂う空気が重かった。
何事も知らないようにふるまうことが語れなくしているかも知れない、「息子さんのこと、本当に残念です」と口にした。両親は口びるをかみしめながら小さくうなずいた。
3日目に父が私に「息子帰ってきたで」と言い、視線の先を追うと白い袋に包まれた骨壺があった。写真立てにはとびきりの笑顔の写真と息子の好物が並べられていた。あまり風通しのよくないスペースでゆっくり滞在することもできず、短い会話にとどめるしかなかった。
母は食欲がない以外は症状がなく、父は持病があったため見えてる症状と見えていない症状を注意深く観察した。
96%あった酸素飽和度は89%まで低下し、気丈にふるまっていた気力が尽きたかのように寝ている時間が増えた。目を開けずの会話、命の下降に向かう独特の表情に変わる。入院治療を希望していることが生きる力を感じさせた。保健センターに症状と入院の必要性を報告したが、この頃から入院病床の満床状況はひどくなり、それくらいの症状じゃあ入院できないんです。
10年以上のかかりつけ医は、コロナ対応はしておらず、かつ発症から4週間は対面診察をしていません。
だからコロナを伝えたくなかったのにと向けられた怒りと落胆に、申し訳ないです。父にかかりつけ医への相談を勧めたことを後悔した。さらに悪化して入院できるか、自然の力で回復するかを見守るしかなかった。
神戸はその後コロナ期間中のみ主治医の体制がかなり充実してきたが、当時はこのようにかかりつけ医にも相談しないか、断られればただ入院を待つか、自然によくなるのを待つかしかなかった。とんでもない状況に体制が追いついていなかったのだ。
コロナなのか、息子の死なのか、空気の重い部屋に長くこもっていることのどれが悪くしているのか、すべて混合しているようにも感じた。夫婦ともにさらに食欲がなくなってゆく。生きる希望がもうないんです。
そうかもしれません、それでも私はお二人に生きてほしいと思います。息子さんはお元気に過ごすことを願っている。
道を開いた問いかけは、何なら食べられそうですか?だった
父は閉じていた目をぱっと見開いて「ぶどうパン」
母はうつむいて顔を上げて「ポカリスエット」
どんなぶどうパンか、どんなポカリスエットか私は欲しいものと買うものがずれないように必死で聞いた。
帰り道に立ち寄った店でそのぶどうパンを見つけた時、思わず胸に抱きしめていた。ポカリスエットは何ml入りか聞くのを忘れて、各種抱えきれないほどをかごに入れた。
翌日の訪問に向かう時は小走りになっていた。
寝ていた父にこれであってますか?6個入りのぶどうパンを差し出した。目を細めてこれや、これや、久しぶりに起き上がった姿を見た。母は食卓に並べた大中小のポカリスエットをうわーと両手を頬にあてて喜んで、うち水飲まへんのよ、ポカリスエットなら飲めるんよ。これでしばらくあるわ。
この瞬間、風が吹いたのを感じた。
6個のぶどうパンが食べてみる気持ちを引き出し、翌日には藤田さんお父さんね、今朝レトルトカレーを一人前食べたのよ、一気に食べたらお腹壊すで言うても聞かへんのよ。
山を越したと思った。そして隔離解除となる日がきた。
酸素飽和度は安静時93%、動くと89%の上がりどまりだったが、あとは受診につなぐしかない。
隔離解除後の呼吸不全を診てもらえる病院を見つけたが、父はこれまでもこれからも診てもらうかかりつけ医に気を悪くされたくないから、診てもらえるまで待ちます。意向は変わらなかった。
もうしばらくだけ呼吸リハをしてせめてかかりつけ医のところまで歩行する練習をしたかったが、例外は認められず、かかりつけ医からの訪問看護指示書も交付されずでは訪問を継続することはできなかった。心配だったが仕方がない、診てもらえる病院の情報と連絡先をお渡しし、もし調子が悪くなったら、かかりつけ医に電話で相談して決めて下さい。
はい、そうします。
では、本日で私の訪問は終わりになります。
少し気がかりを残しますがお二人にお会いでき数日をご一緒できたことに感謝の気持ちを伝えた。
母は、長く外に出てないから看護師さんがいる間に練習してみようかな。
一緒に家の近くの通りを歩いたが、歩きっぷりもしっかりしていて、息切れもなかった。
後日、回復の具合を確認するためにお電話をしたら父は悪化せず、かかりつけ医の受診につながっていた。胸部レントゲンでも採血でも異常はなかったそうである。
初めて聞く、息子の話。
あっという間のことでした。施設で大規模クラスターが起き、たったひとり亡くなったのがこの息子だった。陽性判明から自宅療養(入院待機)すぐに高熱と呼吸状態が悪くなり、真夜中に救急搬送となった。保健センターから連絡がありすぐに救急車が行きますので入院の準備をして下さい、すぐには帰れないかも知れませんので多めに荷物をして下さいね。
準備の間中、コロナに感染していることも、治療を受けなければ命が危ないことも理解できていない息子、ゆっくり理解させるだけの猶予もなく「いやや、行きたくない、お父さんとお母さんのそばいいたい」と大声を出し、到着した救急隊員が搬送しようにも大暴れし、救急隊が配慮をして少しだけの時間を3人に与えた。
母は自分も付き添えるものと準備していたが、母自身も陽性であり外に出られない。引き離されるように搬送され、そしてこれが最後の別れとなった。
入院治療で好転せず息子は亡くなった。陽性判明から6日後のことであった。
あっという間だったんです。何が起きたか、当時の記憶も途切れ途切れでしか覚えていない。
受け入れられないから、信じたくないから悲しくならないのかな。私まだ一度も泣いてないんです。お父さんは家の外に置かれた遺骨を抱いて「ごめんな、ごめんな」と泣いていた。泣いた主人を見るのは初めてでした。
あの時、苦しそうな深い息をしていて母親としてどうしてやればよかったのか、どこにも相談できず、誰にも教えてもらえなかった。何ができたんじゃないかと思うんです。最後と分かっていたなら、思いきり抱き締めたかった、手を握っていたかった、ガラス越しでもいいから最期を一緒に過ごして見ていたかった。
ねえ、藤田さん、母親として何ができたんでしょう。
どうすることもできなかったと思います。
少しの沈黙の後、ところでどんな息子さんだったのですかと聞いた。
一時間くらい聞くそこには幸せに生きた40年が詰まっていた。
最後とは知らなかったはずだけど、驚くような成長をすべて見せて逝きました。施設は息子にとってかけがえのない場所でした、第二の家庭のようでした。一緒に育ててもらいそこで育ち、いつも笑っていました。近い距離にいてくれたから感染も広がったんだと思います。毎日、往復した道のりをしばらく通るのがつらかったけど、やっと通れるようになりました。施設を恨んではいません、でも国を恨みます。母が一度だけ見せた厳しい形相であった。
母の承諾を得て、施設に当時の様子をお聞きした。
批判、責められるという構えで一気に閉じてしまわれる感じが分かったので、そうではないんですと事情を伝えた。あとで考えればあれをしておけばということは見つかるだろう、でもそこは私の範疇ではない。施設でのかけがえのない過ごし方や心の営みと感染予防の徹底を両立させることは難しい。どんな苦労があったのか。
まだ利用者も家族も職員にも、現実が受けとめられないでいる者、後遺症に苦しむものもいて回復の途中なんです。お母さんから伝えられた施設で過ごしたからの成長や感謝を代わりに伝えた。回復までの道のりは長いと思いますが、看護師として陰ながら応援していますと添えた。
「私のような経験をする母親を増やさないでほしい」。
忘れません。どうぞお元気で、藤田さんも気をつけてね。これで私の最後の電話として、後は遠くから回復を願い見守る。
コロナはあっという間にやってきて、悲しみの機会さえ奪う。
病院死として数えられている中に、本質的には自宅死だった方も含まれる方がどれだけいるのだろう。神の目にはなれないが、落ち着いている様で落ち着いていないことを見極めらる、そして、早い段階でのスクリーニングが求められる。それが自宅療養・入院待機者に求められる臨床の一つである。前兆がある場合とない場合がある。ない場合は30~50代に多い感触。コロナ特有の臨床像。
入院待機の死、残念である。繰り返されてはならない。けれどそれが息子の全てではない。父と母と施設職員に愛されて幸せに生きたことの丸ごとを大事に覚えていたいと思う。
6個入りのぶどうパン見かけるたびに思い出すんだろうな。私も前に進みたいと思います。
*本人もしくはご家族に承諾を得られている方の綴りを続けてゆきます。
保健センターから障害の40歳の息子と両親の3人の健康観察の依頼があり、できるだけ3人一緒がいいので悪化しないといいんですけどという言葉が添えられた。翌日、訪問の準備をしていると息子は容体が急変し、救急搬送になったから、両親だけの健康観察になりましたと連絡があった。再度連絡があり、そのドアを開ける前に、息子が亡くなったことを知らされた。
どんな面持ちで、どんな気持ちを持って、どんな言葉をかければいいか思いつかなかった。両親が息子の話題に触れなければ、触れないでおこう。呼び鈴を鳴らし中に入った。部屋に漂う空気が重かった。
何事も知らないようにふるまうことが語れなくしているかも知れない、「息子さんのこと、本当に残念です」と口にした。両親は口びるをかみしめながら小さくうなずいた。
3日目に父が私に「息子帰ってきたで」と言い、視線の先を追うと白い袋に包まれた骨壺があった。写真立てにはとびきりの笑顔の写真と息子の好物が並べられていた。あまり風通しのよくないスペースでゆっくり滞在することもできず、短い会話にとどめるしかなかった。
母は食欲がない以外は症状がなく、父は持病があったため見えてる症状と見えていない症状を注意深く観察した。
96%あった酸素飽和度は89%まで低下し、気丈にふるまっていた気力が尽きたかのように寝ている時間が増えた。目を開けずの会話、命の下降に向かう独特の表情に変わる。入院治療を希望していることが生きる力を感じさせた。保健センターに症状と入院の必要性を報告したが、この頃から入院病床の満床状況はひどくなり、それくらいの症状じゃあ入院できないんです。
10年以上のかかりつけ医は、コロナ対応はしておらず、かつ発症から4週間は対面診察をしていません。
だからコロナを伝えたくなかったのにと向けられた怒りと落胆に、申し訳ないです。父にかかりつけ医への相談を勧めたことを後悔した。さらに悪化して入院できるか、自然の力で回復するかを見守るしかなかった。
神戸はその後コロナ期間中のみ主治医の体制がかなり充実してきたが、当時はこのようにかかりつけ医にも相談しないか、断られればただ入院を待つか、自然によくなるのを待つかしかなかった。とんでもない状況に体制が追いついていなかったのだ。
コロナなのか、息子の死なのか、空気の重い部屋に長くこもっていることのどれが悪くしているのか、すべて混合しているようにも感じた。夫婦ともにさらに食欲がなくなってゆく。生きる希望がもうないんです。
そうかもしれません、それでも私はお二人に生きてほしいと思います。息子さんはお元気に過ごすことを願っている。
道を開いた問いかけは、何なら食べられそうですか?だった
父は閉じていた目をぱっと見開いて「ぶどうパン」
母はうつむいて顔を上げて「ポカリスエット」
どんなぶどうパンか、どんなポカリスエットか私は欲しいものと買うものがずれないように必死で聞いた。
帰り道に立ち寄った店でそのぶどうパンを見つけた時、思わず胸に抱きしめていた。ポカリスエットは何ml入りか聞くのを忘れて、各種抱えきれないほどをかごに入れた。
翌日の訪問に向かう時は小走りになっていた。
寝ていた父にこれであってますか?6個入りのぶどうパンを差し出した。目を細めてこれや、これや、久しぶりに起き上がった姿を見た。母は食卓に並べた大中小のポカリスエットをうわーと両手を頬にあてて喜んで、うち水飲まへんのよ、ポカリスエットなら飲めるんよ。これでしばらくあるわ。
この瞬間、風が吹いたのを感じた。
6個のぶどうパンが食べてみる気持ちを引き出し、翌日には藤田さんお父さんね、今朝レトルトカレーを一人前食べたのよ、一気に食べたらお腹壊すで言うても聞かへんのよ。
山を越したと思った。そして隔離解除となる日がきた。
酸素飽和度は安静時93%、動くと89%の上がりどまりだったが、あとは受診につなぐしかない。
隔離解除後の呼吸不全を診てもらえる病院を見つけたが、父はこれまでもこれからも診てもらうかかりつけ医に気を悪くされたくないから、診てもらえるまで待ちます。意向は変わらなかった。
もうしばらくだけ呼吸リハをしてせめてかかりつけ医のところまで歩行する練習をしたかったが、例外は認められず、かかりつけ医からの訪問看護指示書も交付されずでは訪問を継続することはできなかった。心配だったが仕方がない、診てもらえる病院の情報と連絡先をお渡しし、もし調子が悪くなったら、かかりつけ医に電話で相談して決めて下さい。
はい、そうします。
では、本日で私の訪問は終わりになります。
少し気がかりを残しますがお二人にお会いでき数日をご一緒できたことに感謝の気持ちを伝えた。
母は、長く外に出てないから看護師さんがいる間に練習してみようかな。
一緒に家の近くの通りを歩いたが、歩きっぷりもしっかりしていて、息切れもなかった。
後日、回復の具合を確認するためにお電話をしたら父は悪化せず、かかりつけ医の受診につながっていた。胸部レントゲンでも採血でも異常はなかったそうである。
初めて聞く、息子の話。
あっという間のことでした。施設で大規模クラスターが起き、たったひとり亡くなったのがこの息子だった。陽性判明から自宅療養(入院待機)すぐに高熱と呼吸状態が悪くなり、真夜中に救急搬送となった。保健センターから連絡がありすぐに救急車が行きますので入院の準備をして下さい、すぐには帰れないかも知れませんので多めに荷物をして下さいね。
準備の間中、コロナに感染していることも、治療を受けなければ命が危ないことも理解できていない息子、ゆっくり理解させるだけの猶予もなく「いやや、行きたくない、お父さんとお母さんのそばいいたい」と大声を出し、到着した救急隊員が搬送しようにも大暴れし、救急隊が配慮をして少しだけの時間を3人に与えた。
母は自分も付き添えるものと準備していたが、母自身も陽性であり外に出られない。引き離されるように搬送され、そしてこれが最後の別れとなった。
入院治療で好転せず息子は亡くなった。陽性判明から6日後のことであった。
あっという間だったんです。何が起きたか、当時の記憶も途切れ途切れでしか覚えていない。
受け入れられないから、信じたくないから悲しくならないのかな。私まだ一度も泣いてないんです。お父さんは家の外に置かれた遺骨を抱いて「ごめんな、ごめんな」と泣いていた。泣いた主人を見るのは初めてでした。
あの時、苦しそうな深い息をしていて母親としてどうしてやればよかったのか、どこにも相談できず、誰にも教えてもらえなかった。何ができたんじゃないかと思うんです。最後と分かっていたなら、思いきり抱き締めたかった、手を握っていたかった、ガラス越しでもいいから最期を一緒に過ごして見ていたかった。
ねえ、藤田さん、母親として何ができたんでしょう。
どうすることもできなかったと思います。
少しの沈黙の後、ところでどんな息子さんだったのですかと聞いた。
一時間くらい聞くそこには幸せに生きた40年が詰まっていた。
最後とは知らなかったはずだけど、驚くような成長をすべて見せて逝きました。施設は息子にとってかけがえのない場所でした、第二の家庭のようでした。一緒に育ててもらいそこで育ち、いつも笑っていました。近い距離にいてくれたから感染も広がったんだと思います。毎日、往復した道のりをしばらく通るのがつらかったけど、やっと通れるようになりました。施設を恨んではいません、でも国を恨みます。母が一度だけ見せた厳しい形相であった。
母の承諾を得て、施設に当時の様子をお聞きした。
批判、責められるという構えで一気に閉じてしまわれる感じが分かったので、そうではないんですと事情を伝えた。あとで考えればあれをしておけばということは見つかるだろう、でもそこは私の範疇ではない。施設でのかけがえのない過ごし方や心の営みと感染予防の徹底を両立させることは難しい。どんな苦労があったのか。
まだ利用者も家族も職員にも、現実が受けとめられないでいる者、後遺症に苦しむものもいて回復の途中なんです。お母さんから伝えられた施設で過ごしたからの成長や感謝を代わりに伝えた。回復までの道のりは長いと思いますが、看護師として陰ながら応援していますと添えた。
「私のような経験をする母親を増やさないでほしい」。
忘れません。どうぞお元気で、藤田さんも気をつけてね。これで私の最後の電話として、後は遠くから回復を願い見守る。
コロナはあっという間にやってきて、悲しみの機会さえ奪う。
病院死として数えられている中に、本質的には自宅死だった方も含まれる方がどれだけいるのだろう。神の目にはなれないが、落ち着いている様で落ち着いていないことを見極めらる、そして、早い段階でのスクリーニングが求められる。それが自宅療養・入院待機者に求められる臨床の一つである。前兆がある場合とない場合がある。ない場合は30~50代に多い感触。コロナ特有の臨床像。
入院待機の死、残念である。繰り返されてはならない。けれどそれが息子の全てではない。父と母と施設職員に愛されて幸せに生きたことの丸ごとを大事に覚えていたいと思う。
6個入りのぶどうパン見かけるたびに思い出すんだろうな。私も前に進みたいと思います。
*本人もしくはご家族に承諾を得られている方の綴りを続けてゆきます。
(2021.5.24)
つつく・・・
つつく・・・
※藤田さんの著書は台湾でも翻訳出版(写真左)されています。
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